安岡正篤を座右の書に
人生と陽明学
出版社: PHP研究所 (2002/06)
若き日に王陽明研究によって一躍名を馳せた安岡正篤氏が、長き年を経てその人物と学を語る講話集。
ただし、王陽明の一生を描いたものではなく、その思想と学問の一端を魅力的に垣間見せてくれる講話である。
世に陽明学を知る者は少ない。
そして一見して知っておる風であっても、現代人にありがちな浅学によって単なる革命思想と捉えられる事が多い学問である。
だが、王陽明の事蹟を辿ってゆけば、決してそのような浅薄な学問でないことが良く分かる。
王陽明は明代後半期の人である。
明の時代は宦官が蔓延り、曲学阿世が流行して学問といえば官吏登用試験の科挙に合格するためのものが主流であった。
所謂、立身出世のための功利的学問、暗記型の生命のない主知的学問、文や詩を作ったりする遊戯的・技術的学問である。
この中にあって王陽明は厳として、失われた道徳を回復し真の人格をつくる、所謂、聖賢の学問、身心の学を講じたという。
王陽明は自己を信じ、世の因習的な学問に対して俄然として立ち向かった。
これが王陽明の思想をして革命的、反体制とされる所以である。
安岡正篤氏はその事蹟に触れ、その一生を次のように語っている。
古来、偉大なる人物と言われる人は数知れずありますが、凡そ陽明の如き変化と波瀾に富んだ生涯を送った人は外に例がない。
正に数奇なる生涯という言葉そのままの一生であります。
よくもあの病躯を引っ提げて、あの艱難辛苦を極めた経歴の間にあれだけの学問・講学が出来たものであります。
彼の文を読み、詩を読み、門弟達との間に交わされた問答や書簡を読み、或いは政治に対する建策、匪賊討伐の際の建白書といったものを読みますと、本当に何とも言えぬ感激に打たれるのでありまして、人間にこういう人がおるのか、又人間はこういう境地にあってこういうことができるものか、ということをしみじみ感じます。
単なる机上の学問ではなく、身を以て行じた王陽明。
彼の堆い文献を渉猟して最期の舟中にて息を引き取るに至り、安岡正篤氏は潸然として涙が下ったという。
遥か五百年も前の人間がその時間を越えて人を動かす。
なんとも不思議な人間を貫く生命の躍動であり、双方が互いにその全生命を込めることによって初めて起こる魂の共鳴である。
これこそが、真の人と人との出会いなのであろう。
この王陽明の学問は日本へと渡り、幾多の傑物を感悟せしめ、日本陽明学として大成する。
中国にて生じたような末流の余弊などは存在せぬ、日本の精神と渾然として相俟った学問である。
陽朱陰王と呼ばれた佐藤一斎は云う。
舜何人ぞや、予何人ぞや。只本心の好む所に従はんのみ、と。
佐藤一斎もまた、陽明学の根本たる心のあり方に共鳴するものがあったのであろう。
そのような佐藤一斎の言志四録を挙げながら、安岡正篤氏はこう記している。
問題が複雑になればなるほど、困難になればなるほど、精神的なものを除いては解決がつかない。
政治的な問題も、社会的な問題も、つきつめれば心の問題に帰する。
雑然たる知識や、ただの物識り・博識というものでは本当の生命に一致しない。
こういうことを当時の大学総長である佐藤一斎先生が道破しておる。
今日もこういう大学総長が欲しいものであります、と。
他人に対する自己ばかりを追い求め、本当の自分を見出せない人が多い現代において、陽明学の心の学問・実践の哲学は大いに啓蒙されるべきものであろう。
更に安岡正篤氏はこの自己に徹し、真の自己を得んとした人物として大塩中斎を挙げる。
安岡正篤氏は云う。
中斎先生を人として、個人として考察する時に気がつきますことは、先生の学問・思想の跡を辿ってみるとよく分かるのでありますが、自分というものをいかに把握するか、自分という人間をいかに正しくするかということに、つまり本当の自己をつくるということに徹底しておる。
人間というものの本質はどこにあるか、人間の人間たる意義・価値・権威というものはどこにあるか、ということに実に徹底した考察をしております、と。
そして、役人として中斎先生の如く純誠で真剣に努力を捧げた人は容易に類を見ないと云い、その学問・業績を点検してみると、人間はやはり学問、修養によって、その人本来を如何にでも変化せしめ、如何にでも立派なものに仕立て上げることが出来るものだということをしみじみ考えさせるものである、と述べている。
大塩中斎も又、陽明学を真剣に学び、人間の欲得を超越して自ら行じ、終には死生を一にしたのである。
陽明学を危険思想であるとする人々に度々挙げられる大塩中斎ではあるが、その挙の経緯と当時の民衆の行動、そして事後における人々の彼への慕い方を鑑みれば、決して非難されるが如き決起ではなかったと言えるであろう。
その大塩中斎の感激性に慨嘆して安岡正篤氏はこう記している。
今日の日本に大事なことは、内面に於いてこういう学問・修養の尊いこと、と同時に、こういう真剣熱烈な誠の学者や教育家、宗教家、役人、政治家等が一人でも多く輩出されることであります。
これが日本を救う一番の道である、ということをしみじみ感ずるのであります、と。
感激性の無い魂は形骸である。
学者や宗教家は往々にして内面のみに拘泥されるが、真の学問に参ずれば、必ずや内面と同時に外へと発露する感激性を抱くものである。
現実をなんら省みない理想・志は高きところから世を壊し、自己を省みない利己的堕落は低きところから世を壊すという。
知行合一と事上磨練、そして致良知の王陽明の思想はまさに現実と遊離せずに自己に反るものであり、世と共に発展を遂げる思想なのである。
安岡正篤氏は王陽明の学問を深刻で霊活にして限り無い感激のこもったものであるとし、正に地上における最も荘厳なる学問であると云う。
偉大なる魂に触れ、共鳴し、感激を以て心へ反る、その思想・事蹟に描かれる王陽明の姿には人々を感悟せしめるだけの生命が宿っているのであろう。
陽明学は、この自己を忘却し易い現代であるからこそ、人々を感じせしめる学問として輝くべきものなのである。
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